2011年3月20日 の説教



 聖書

 ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節

説教要旨   使徒パウロは最初キリスト教徒に対する迫害者でありました。使徒言行録22章3節に「わたしは、・・・ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、・・・熱心に神に仕えていました」とあります。更に5章34節を見ると、

 「・・・民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、・・・」とあります。このガマリエルは、当時のユダヤ随一の律法学者で、パウロはこの人から律法解釈を学んだ。それは大変厳しい教育だったけれども、それを受けてパウロは若手ナンバーワンのファリサイ派になった。どんなにか誇らしげなことだったか、それはパウロの言葉でもよく分かります。

 ところが、自分が真理と信じて、邪教キリスト教徒を迫害し、功徳を立てたつもりでいたパウロでしたが、6節で突然、天から強い光がパウロの周りを照らし、パウロは地面に倒れ、『なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いた。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と示された。

 パウロは、出来事で目が見えなくなっていましたが、キリスト者アナニアの言葉によって再び見えるようになった、と記されています。

 ガマリエルから律法を学び、厳しい教育によって導かれた。そのプライドは大変高いパウロは、自分は真理を得ていると確信していたのであります。ところが、主イエスの光によって、自分は目が見えなくされ、更に主の弟子アナニアによって、再び目が見えるようになった。何一つ自分の律法によって得た知恵は、このとき役に立たなかった。どんなにこの出来事はプライドがぶっ潰れた、地に落ちたそういうことだったろうか、と思われます。

 本日のガラテヤの信徒への手紙6章14-18節も、パウロの手紙です。その14節で「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」とあります。パウロの手紙の中で「誇る」という言葉は人間のこうしたプライドを超えた神の力を誇ると共に自らの「弱さ」を誇るということが示されています。弱さこそはそこに神が働かれることを信じて神の力を受け入れ、神が信じる者を神の栄光に招き入れるきっかけとなるからです(Ⅰコリント1: 31、Ⅱコリント10: 17、11: 30、12: 5)。キリストの十字架もイエスの弱さ、無力の姿ですが、この弱さにこそ神の力がここに完全にあらわれたのです。

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