2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 15章11~32節

説教要旨   今日のルカ15章11節からはイエス様のたとえの話、よく知られている放蕩息子の話です。これは15章1-2節で、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た時、ファリサイ派の人々や律法学者たちから、イエスが徴税人や罪人たちと食事まで一緒にしていると批判されたことに対応しての、三つのたとえの一つであります。この譬えの前半の中で主イエスが示しているのは、父のもとを離れ、欲望と快楽とに取りつかれた人の辿った悲惨であります。

 確かに「この放蕩の限りを尽くす」ということが兄の批判にあるように(30節)、一つの問題点にはなっています。しかし兄はこの快楽、堕落の末に落ちぶれた弟がどんなに悲惨な目に遭い、苦労苦悩をそこで背負っていったか、ということを知りません。ユダヤ人が最も忌み嫌っている豚の世話をし、空腹のあまり、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかったという窮状を彷徨ったということを知りません。そしてその苦難苦悩の底に行き着いたからこそ、もはや我が身を雇い人としてでもよいから父の下に帰ろうとした悔い改めの心と、求めの姿を知りません。

 この譬えにある父のありようは、悔い改めた罪人を救う神様に置き換えてゆけるものなのです。

 主イエスの食卓は,多くの人々を悔い改めに導くものです。放蕩息子のたとえにありますように、放蕩息子の悔い改めを聞いた父親が赦し、受け入れ精一杯のもてなしをしてあげる。

 主イエスのもとに来た人々は、共同体を失った人たちです。罪人たちも徴税人も、ユダヤ社会からつまはじきにされ、日陰に生きてゆかざるをえないところに追いやられた人々です。

 放蕩息子を受け入れた父親のように主イエスはともに自らの食卓を開くのです。故郷を求めて悔い改めをなした息子を受け入れるように、主イエスもまた社会に居場所のない人々を受け入れました。神様はそのように悔い改めた人の窮状を癒し、そこに応えたもう方なのです。

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