2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 16章19~31節

説教要旨   今日の聖書の譬えは、陰府で責め苦に遭う金持ちと天国の宴席にいるラザロのありようの対比が描かれていますが、一つ考えさせられることは、26節で『わたしたちとお前たちの間には大きな淵がある・・・』と指摘されていることです。それは、金持ちが今責め苦に遭っている自らのところへラザロを遣わすように要求したからです。彼は更に、このラザロを地上の自分の兄弟たちのところに遣わして、陰府で責め苦に遭うことのないように言い含めて欲しいとまで嘆願しています。一言で言えば身内主義であり、生前、ラザロに対して冷たくふるまっていた金持ちの身勝手さと、それがゆえに『大きな淵がある』という事柄の真意に気づけない人間の悲しい現実があるのです。天の宴席にラザロを招き入れたアブラハムは、『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ』と示しました。これは金持ちがどうのとか貧者がどうのという問題ではなく、人間のつながりを問うような譬えの話になっている。すなわちこの金持ちとラザロの関係の中において、神様はどちらを選ばれるか、ということに関わっているのであります。

 29節でアブラハムは『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』と解決法を示します。モーセと預言者とは、律法と預言書、即ち当時ユダヤのシナゴーグ(会堂)で読まれていた旧約聖書のことです。聖書の言葉によって、神の御心にふれ、そこに即した生き方に変えられるならば、神様の選びにあって天に招き入れられるかもしれない。しかし金持ちは『いいえ、・・・もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう』とこだわります。神の選びは、神に聞き、神に悔い改めることに起こされると示しているのに、そこを通過して目に見える示しにこだわっているのです。

 これとは裏腹に主イエスはご自身の身内主義を否定しましたが、それはマルコ3章35節で「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と示しました。「神の御心を行う人」はその御心がどのようなものであるかをまず聖書に聞かなければ分からないはずです。聖書に聞き、神の御心を理解し、それを行う人。主イエスもまたご自身がまずもって「神の御心を行う人」となってゆかれました。人々の悔い改めを起こすために、自らが十字架を担いゆく形で、罪の滅び、罪からの救いを示したのであります。

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