2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヘブライ人への手紙 11章32~12章2節

説教要旨   「信仰の馳せ場」という言い方をキリスト教会の世界ではよくしますが、この言葉は走ることに関係があります。ですからこの言葉は今日のヘブライ人への手紙12章1節「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあることに関して使われることが多い(コリントの信徒への手紙一9章24節などにも)。詩篇119篇32節には、「あなたによって心は広くされ/わたしは戒めに従う道を走ります」とありやはり走る関連で出てきますが、この「走る」は「情熱を傾ける」という意味で「あなたによって心は広くされ」とあることにも関係し即ち私の心を解放してくださったという「喜び」の現れであり、そこから走り出す、情熱をもつ意味が発出しているのです。それは神様から呼びかけられた信仰によって、解き放たれ、自由になったのですが単なるそれではなく、神様に委ねるのです。

 ところで私どもの走り場である社会はいわゆる競争社会であり、人間の残酷さが渦巻く社会です。本日の聖書の35節の途中から「他の人たちは」と始まる言葉があって、この人たちは、拷問にかけられ、あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄される・・・という憂き目に遭っています。

 そのような人間の支配抑圧という罪渦巻く世界で、そうした人間の罪の重荷から私たちは解き放たれなければならない。時として不信仰で自己中心的な欲望や願望、思い煩い、恐怖といったものからも私たちが解き放たれなければ、走り出すことが出来ません。それには自分を神様に委ねていかなければならない。どのようにしてか。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて/信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら/自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(12章1-2節)」と今日の聖書は示しています。「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」からです(12章2節)。そうした信仰の創始者が私どもの先頭をきって共に走って下さる。神が共にいてくださるのです。

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