2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 1章1~14節

説教要旨   旧約聖書の創世記で神様が、この世界を造っていく、という場面があります。

 「初めに、神は天地を創造された。・・・神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。・・・。』(1.1-28)」神はこうして言葉で世界を造っていく。私たち人間も造られ、地に満ちよと言葉かけられます。そうすると、ちゃんとそれが命あるものになるのです。

 今日のヨハネ福音書の1章1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあります。神は言葉です。1節にはそう書いています。ヘボンというローマ字を造った宣教師はこれを「元始(はじめ)に言霊(ことだま)あり/言霊は神とともにあり/言霊ハ神なり。(ヘボン1872年訳『新約聖書約翰(ヨハネ)伝』)」と訳しました。美しい、感動的な言葉です。それはことだま、と言っている。私たちは言葉というとすぐに書かれた文字を連想します。今の時代はケータイでしょうか。しかしことだまは霊であり、この霊があらわすものは「いのち」、即ち生きている、ということです。ですから、生きているものから生きているものが生み出されるのです。

 このことばは元々のキリシア語ではロゴスです。ロゴスはことばであるが、同時に生きている霊であり、同時に神である。それは恵み深い神の愛に満ちた命令としてのことばです。これは言葉に宿る生きて働く力、霊的な力を意味します。ことばは霊であり、言葉は神であり、そして生きている。しかも、神の言葉によって命ずると、それらが生きる力をもつのです。死んでいるものが蘇る力。それをイエス様はタリタ・クミという言葉で、死んでいた小さな女の子を起こしたことがあった。はたまたエファタという言葉で、耳が聞こえず話せない人をいやされたこともあった。

 さて、ヨハネによる福音書では暗闇というものがこの世を覆っていると告げます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」この闇というものを理解するのもこのヨハネ福音書を読むときに大変大事なことであります。それは光を決して理解しない闇というものが、いったい何を指し示しているのかということにかかわります。それは10節の世であり11節の民です。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

 闇に対して示されている言とは主イエスを指し示している。その「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた(14節)」と示されています。

 神のひとり子なる主イエス。主イエスはまことに全てを照らす光となられ、罪深いこの世の闇を照らす。キリストの言葉は私たちに生きて働き語りかけるのです。

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