2011年3月20日 の説教



 聖書

 エフェソの信徒への手紙 2章1~10節

説教要旨   今日、エフェソの信徒への手紙で「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。(2:1)」 そして、続く言葉に「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、…に従っていた」と指摘する。

 そこで、あなたがたは、…不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいたという脈絡となるわけですが、そうしますと、あたかも、これら権力者や空中の者、悪霊に惑わされて過ち、罪を犯したと読めてしまう。それでは、罪の契機となるもの、切っかけとなるものを外側に設定している(外因性)ように見える。それはどうなのか。

 古代の神学者アウグスティヌスは「告白」という書物で知られていますが、冒頭に若い時の彼が今日の3節にありますような『肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動』する人間だったと告白しています。そして、彼は、私たちが「罪」を犯すのはなぜか?と問い、その答えとして、罪を犯す理由は、神と世界の側にではなく、私の側にある。例えば情欲をもつのは他でもない私自身であるから。それゆえ私以外の何処かに、自分が犯した罪の原因を求めることは不合理である。したがって罪の原因は私の自由意志であると言うのです。自由意志とは何か。それは例えば「善」ということを取り上げるとすれば、人間の判断でこれが「善」だろうとして行うことです。私たちはよく「よかれと思ってこうした、けれど反って憎まれた」ということがありますがそれは自分の考える「善」と他人の考える「善」は違うものなのです。人間の判断の自由意志は、そうしたことに端を発して、やがては罪の原因となっていく。

 では、本当の善とは。アウグスティヌスは、神の法、つまり神の意志というものが善の基準をなす、と言います。同じように罪の判断基準も神の意志によって下されると。この神の意志はアウグスティヌスによれば、聖書のことばに聞くことによって得られる、というのです。

 私たちが善を自らの力でなすのではなく、神の意志をみ言葉に聞き、そこに思いを合わせて立ち行くならば、それこそが神が一人一人にあって働かれるところとなるのです。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」それを信頼して受け入れ自らの喜びとしていくこそ信仰者の得難い喜びなのであります。

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