2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 8章21~36節

説教要旨   今日のヨハネ福音書の8章でイエス様はユダヤ人たちとやりとりをしている中で、「真理はあなたたちを自由にする(32節)」と示したのですが、この言葉に対してユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか(33節)」と反論しました。イエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である(34節)」と示されます。「子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。(36節)」主イエスは一人一人を真実に解き放つ主としていましたもう。罪の奴隷となった人間存在を真実に解き放つ。罪から自由にするのです。人間は罪をおかす。

 罪から人を真実に解き放つ、この主イエスとは誰か、どのような存在なのか。

 このヨハネの8章では、一環として、この主イエスとは誰か、というテーマが貫いています。「あなたは、いったい、どなたですか(25節)」。例えば、今日の21節からのところに、主イエスは自らを天上の存在のように示しています。その中で「『わたしはある』ということを信ぜよ(24節)」という言葉があります。ギリシア語ではエゴー・エイミですが、これは旧約聖書の出エジプト記3章14節に記される神名と関連しています。そこで神はモーセに向かって「わたしはある」「わたしはあるというものだ(有りて有る者)」と示しています。この神がどういう形で、モーセにとって「有りて有る者」となっていったのか。一言で言うならば、奴隷から解き放ったのです。イスラエル人をエジプトの奴隷から解放した。もちろんその出来事の中では本当に神様のみ手の働きが、いかに多様な人間現実の罪と不服従にまみれた中で働かれているか。この多くは神への不服従の罪、つまり神様あなたなんて当てにしていませんよと。あなたの言うことなんか、ほんの一部しか当てはまりませんというような不信心、不信仰というものが現れている。むしろそれをエジプトのというよりは、人間の人間自身の囚われ、奴隷状態というのです。神に向かって解き放たれていない人間そのものが神不信心という最大の罪を引き起こすのです。

 主イエスはこれを引き合いに出しながら「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである(29節)」と語り、多くの人々を信仰に導きました。神はあなたと共にある。これをその業と教えによって自ら示したのです。

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