2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 5章1~18節

説教要旨   エルサレム神殿に至る門の一つに羊の門というものがあります。この門の近くにベトザタという名前の池がありました。主イエスの一行がその側を通りかかりました。池の周りにいわゆる廊下(回廊)があり、この回廊には、病気の人や障がいを持った人が床(おそらく筵か絨毯のようなもの)を敷いて横たわり、1日のほとんどをここで過ごしていました。この池には「主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされた(異本訳<5:3b-4>)」という言い伝えがあったようです。病の人や障がいを抱えた人が、そこに癒やされる一縷の望みを抱いて、水が動くのを待ってその場に佇んでいたのはまぎれもない事実です。

 イエスさまはそこに38年も病気で苦しんでいる人が横たわっているのを見ました。長い間を病気に苦しむ彼に、「良くなりたいか」と言葉をかけました。すると、まるで思いがどっとあふれだすかのように彼は語りだした。

 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。(5:7)」ともどかしさを語った。誰も助けてくれない。水が動くときに手伝って中に入れてくれる人がいない。

 イエスは言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」

 主イエスの言葉で彼は動くことができました。最も大きな必要とする助けは神様であること、しかも主イエスの憐れみ深い優しさに満ちた癒しであることを私たちはここに知ることができます。

 しかしイエス様が業をなさったとき、その病者が床をかついで歩いたその時は安息日でした。それをとがめだてするユダヤ人たちは安息日に癒しを行うことも、床をかつぐことも労働に価するとして裁こうとしたのです。優しさも憐れみもない社会です。その人たちに答えるがごとく、主イエスは17節でこう言いました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」たとえこの社会が優しくなくても、神様は働かれるのです。神様はどんなときでも憐れみ深くして、悲しむ人を慰め、苦しんでいる人の痛みを癒し、嘆く人とともに涙してくれるのです。その働きの原動力は憐れみであり優しさでありました。私たち人の世はうつろいますが、神様の言葉は決してそれに左右されることはありません。憐れもうと思った人を確かに憐れまれるのが神様の言葉であり業です。それが一人一人に伴いますように。

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