2011年3月20日 の説教



 聖書

 ガラテヤの信徒への手紙 2章11~21節

説教要旨   パウロは今日のガラテヤの信徒への手紙の中で、ペトロのありようを批判しています。「なぜなら、ケファ(ペトロ)は、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです (2章12節) 。」このときケファとしては大変難しい対応を迫られていたのは事実だろうと思います。あなたがたは地の果てまでキリストの教えを伝道しなさい(使徒言行録1章8節)との復活の主イエスの示しによって、地中海沿岸諸国の異邦人である人々にも伝道していく中で、一方のユダヤ人キリスト者(理解の上で、まだキリストの教えより旧来のユダヤ的慣習から脱却していない)たちからは、割礼を受けずにいる異邦人と関わるなと圧力があったのです。ケファに連なり、他のユダヤ人も、バルナバさえもがこのような心にもないことを行ったとパウロは猛烈に反対し、異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するべきではないと主張しました。このペトロのありようをパウロは、福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないと酷評する。パウロにとっての真理は一つ。キリストのみに集中せよ、ということです。

 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています(19節)。この言葉から分かることは、パウロは律法は人間を罪に縛り付けるものとして見ている。それはパウロ自身がファリサイ派であったと同時にキリストの迫害者となったことによってハッキリしている。つまり律法主義的ファリサイ派は福音に敵対していくものなのです。律法は確かに罪を罪として認識させるが、そこに縛り付けられており、救いに生きることが出来ない。ケファがユダヤ的律法主義者を恐れて、結局慕ってきた異邦人たちを見捨てるならば、それは福音に敵対しているのです。それはケファの中の福音信仰が弱まった。自分の内に生きているキリストを生き生きと生かす。それは信仰の働きです。

 生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです(20節)。

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