2011年3月20日 の説教



 聖書

 ガラテヤの信徒への手紙 5章13~25節

説教要旨   パウロは、ガラテヤの信徒へのメッセージとして、キリストは自由を得させるために、あなたがたを召し出したと語ります。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい、と言っています。一般には、そもそも罪から解き放たれるということが、自由になるということの意味です。

 囚人が牢獄から出るごとく、罪から自由になる。では、ガラテヤの人たちは自由ではなかったのか。パウロの神学の脈絡で言うならば、律法の下に囚われになっていたということができる。いわば律法の監視の目の下にがんじがらめであった。

 ローマの信徒への手紙の中では、罪と律法の関係をこう示した部分がある。
 律法を知らないで罪を犯した者も律法の下にあって罪を犯した者も皆ほろび、また裁かれる(2:12)。なぜなら、律法によっては、罪の自覚しか生じない(3:20)からです。こうした状況で、律法が果たす役割は何か。それは監視であります。罪をおかさせないように監視する。ファリサイ派がそのように行動した。

 だから、安息日に働いてはいけない、という安息日律法が支配するユダヤ社会の中で、イエス様は確かに安息日は神様のことに心を向ける大事な日ではあるけれども、だからこそ、安息日にする良い業は祝福されるのだとして、癒しの業を安息日でも行いました。ファリサイ派はそれを監視して、律法違反だと、まるで法律に違反した者をめざとく見つけて告発するがごとくに、イエス様を非難したのです。

 パウロは確かに「この自由を、肉に罪を犯させる機会とするな」と示し、19節以降に肉の業としての姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争いというように挙げていきますけれども、もしファリサイ派としてのパウロだったならば、そこで終わっていたでしょう。けれども、それらをただ単に禁じるだけのことではなくて、律法では実らすことのできなかったものをキリストの愛の霊の力は実現させると記すのです。

 霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です(5:22-23)。霊とは、聖霊であります。 

 この聖霊は、使徒言行録1章5-8節のイエス様の言葉の中で約束され、2章の聖霊降臨の場面で、一人一人の弟子たちに聖霊が与えられた。弟子たちはこの聖霊の結ぶ力によって愛と平和と喜びに満ちた宣教へと遣わされてゆくのです。

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