2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 3章1~15節

説教要旨   今日の3節でイエス様はファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員でもあったニコデモという人に、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。ニコデモがある夜、イエスのもとに来て「・・・わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」とたずねたからです。

 ニコデモは純粋に不思議に思っていました。イエス様が何故これほどの奇跡を行えるのか。主にそれは病気の癒しでしたけれどもその能力だってどうして使えたのか。他のファリサイ派は安息日にひっかけてイエス様を懲らしめてやろうということばかり考えていましたが、ニコデモはそのようではなくて純粋にこのわざは神からくるのではないか、と考えていました。

 ところが主イエスの答えは、ご自分に神がともなうことによる力という方向ではなく(それならば、ニコデモにも神が伴えばそのような力を発揮できますということになる)、ニコデモ自身が新しく生まれなければならない、とおっしゃったのです。それはニコデモ自身が自力でなすことではなく、神様になしていただくことによるのです。このことは8節に主イエスが示した言葉に現れます。

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 この風も霊も、ギリシア語やもともとのヘブライ語も同じ言葉です。創世記の 1 章2 節の「神の霊」、2章 7 節の「神の息」、使徒言行録2章の聖霊降臨の場面の2節の「風」と4節の「霊」、これらが皆同じ言葉として表されているのは、神の生命エネルギーが新しい人間を生み出す瞬間を暗示する言葉なのであり、新しい人となることは、主イエス・キリストの示す神を信じる者となる、ということです。

 霊から生まれたもの(6節)としてのありようは、罪に陥って平然と生きることではなく、罪や悪を避け、愛を中心に据えて歩むと言うことです。そのために神は愛のエネルギーを私たちに注ぎ込んでくださるのです。

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