2011年3月20日 の説教



 聖書

 使徒言行録 24章10~21節

説教要旨   今日の使徒言行録では、10節からのところでパウロは捕らえられて弁明しているのすが、特にこの理由の申し立てにおいては、パウロは『礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていない』という点を自己弁護し、12節では『神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりしていない』、と申し開きをいたします。この申し開きの中16節には、「・・・私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」との言葉があります。この言葉が示すものを考えたい。

 パウロがエルサレムに到着したのは21章の途中ですが、その手前の3-4節では、その途上のティルスの港で、弟子たちが「“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った」とあります。この霊とは聖霊のことですが、パウロはそれを振り切っています。11節にもアガボという預言者がパウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」と。聖霊はこのときパウロを引き留めようとしたが、やはりパウロはそれを聞き入れないということなのです。

 それではパウロに語りかける聖霊は無駄なのかというとそうではない。31-32節でパウロが殺されそうになりますけれども、タイミングよく百人隊長や千人隊長が止めに入ってきて、群衆はパウロを殴るのをやめたのです。ここには聖霊の助けがあったと思わざるを得ません。聖霊とは「弁護者」であり、「助け主」であるのですから、パウロの危険を示し、また守る働きをされるのです。

 パウロは内心そのように働く聖霊の業に感謝をしながらも、自分の進む方向には一つの思いがある。23章の1節には、「・・・兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」との言葉がある。ここにも「良心」という言葉が出てきました。

 かつて迫害者であったパウロを「わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である者」(使徒言行録9章15節)として導いた主は、彼を聖霊で満たしつつ(同17節) キリストの良心をもって彼に内在し、その声を届けているのです。良心という言葉は英語ではconscience、con=共に、science=知ることであります。パウロの内なる良心は、キリストとともにあり、その内在する声をこころに聞きながら自らの歩む方向を決めています。この時代のユダヤにはその「良心」の意図する意味も言葉もなかった。律法主義は、人々を縛るための規範でしかなかったのです。「キリストの良心」に従って行動する人が今の時代必要です。

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