2011年3月20日 の説教



 聖書

ペトロの手紙一 2章11~25節

説教要旨   聖書では神様を羊飼い、それに従う人々を羊のように表現することがありますけれども、それとともに信仰者を旅人のように表現することがあります。

 イエス様も旅する人でした。ガリラヤ湖周辺の村々を弟子達とともにくまなく旅されて聖書のことばと教えと癒やしの業を行う。バプテスマを受けられた後は、住む家もなく、もっぱら伝道旅行のみの生涯であらせられました。

 私ども信仰者の道のりというものは、この世の定住生活に於いて生業を得、日々の労苦を定まった場所で営んではいるが、一つの精神的な意味に於いて、この世の旅人であるといえます。

 ペトロの第一の手紙の2章11節には「愛する人たち、・・・いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」とあります。旅人であることとは、魂に戦いを挑む肉の欲をクリーンアップしていくようなありようでもあります。さらに異教徒の間で立派に生活することも勧められており、旅人たる信仰者はそのあり方を通して世に福音により清められた者のありようを証していくためこの世に遣わされたのだとみることが出来る。「彼らは・・・あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」。このような旅人としての信仰者のありようは求められる姿かも知れませんが、同時に人間としての欠けと破れに満ちた私たちの本当の姿はしっかりと神に分かられ、そこに私たちの悔い改めも伴うものです。

 手紙の後半では主イエスの十字架への生涯を次のように示しています「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(24節)」私たちの罪深さはこの箇所では神様にしっかりと分かられている。そして「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです(25節)」と。この「戻ってきた」という表現は例えば放蕩息子のたとえ(ルカ15章)で、父のもとに悔い改めて戻ってくる子がそのままに受け入れられている様子を思い起こします。

 魂の牧者であるキリストは一人一人の羊の魂を癒やされるために待っておられる。その旅路は人生の旅路ですが、私たちには戻るところがあるのです。そこはあらゆる苦悩と悲しみが癒やされ、私たちが新しい命に溢れることが出来るように喜びに満たされるように主イエスが私たち一人一人の牧者であられるからです。

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