2011年3月20日 の説教



 聖書

ローマの信徒への手紙 14章10~23節

説教要旨   「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか(ローマ14:10)」とのパウロの言葉は、直接的にはマタイ福音書7章1-2節「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」との主イエスの教えで、裁く者は自己正当化と、優越感を伴った批判をするが、そのような高慢は神によって懲らしめられることを示しているように思われます。そのように自己正当化をしても、神の目から見れば全ては等しく欠け多い罪深い人間である故、そのような自己正当化は意味を持たない。

 今日のローマの信徒への手紙の「裁くな」では当時の教会の食卓でのこと。肉を食べず野菜しか摂らない人を、使徒言行録10章でペトロが神様に「神が清めたものを人は清くないといってはいけない」と示されたことを根拠に裁く人々に向けられる。自分たちは示しに沿って何でも食べる、というところで彼らは自己正当化をし裁くのです。

 パウロはこの裁かれた兄弟のことを庇いながら、「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです(15節)。」と示し「あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい(16節)」と言っています。そもそも (ユダヤ教にとって汚れた動物の肉を食する)異邦人を責めるような教えから、キリスト教は脱却したのであって(前述の使徒言行録10章)、異邦人はそれゆえにキリスト教に受け入れられ地中海全域の伝道へとつながり、すべての人に開かれたのです。それは善いことだったはずなのですが、このように人を裁くと逆によくないことになってしまう。いわばそしりの種となってしまう。飲み食いのことが裁きや、そしりの種となってしまわないように、パウロはさらに17節にことばをつないでいます。

 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。・・・キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。神に喜ばれるようなありようで、「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。(17-19節) 」と呼びかけている。神に喜ばれることは何かと祈り求めていく。そして人を裁く前に神様にあって大事なこと、尊いことを求めていく。私たちの交わりがそうした互いの平和の思いに導かれていくことを切に願いたいと思います。

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