2011年3月20日 の説教



 聖書

ヘブライ人への手紙 9章11~22節

説教要旨   イスラエルでは年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)の時に贖いのしるしを行います。ユダヤ人にとって人間の罪の贖いを示す最も聖なる、厳かな日です。贖いは(レビ記16章)、大祭司が犠牲の血を持って神殿の至聖所に入り、人々の罪の贖いを行うとあるが、そもそも出エジプト記30章10節でアロンが年に一度、この香をたく祭壇の四隅の角に贖罪の献げ物の血を塗って、罪の贖いの儀式を行うことが定められたことによります。祭司が贖罪の山羊(いわゆるスケープゴート)を屠る前に、その頭に手を置くと、それは人々の罪を持ち去る象徴的行為になります。

 ヘブライ人への手紙9章11節には、この贖いの担い手について、真実の贖いを行う救い主キリストによらなければ、誰も救いを得ることが出来ないことを示します。キリストは「人間の手で造られたのではない、完全な幕屋を通る」という文言を通して、通常の大祭司が為し得ぬこと、つまり神の世界、神が備えた幕屋は人間が感知できないという意味合いを濃厚に込めております。更にキリストは「既に実現している恵みの大祭司としておいでになった」とあり、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたとの言葉があります。キリストがご自身の血によって贖いをなす理由は14-15節に展開されており、「御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせる」ということと「キリストは新しい契約の仲介者であり、最初の契約の下で犯された罪の贖いとしてキリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐため」だと示しています。

 この14節で大事なことは、「キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清める」とあることで、キリストの血とは十字架でのキリストの死を意味し、他の犠牲動物の死の血とは比べものにならない、深い意味を持っていることです。それはわたしたちの良心、心と行ってもよいがそれは善悪のはざまを揺らぐもので、時に臨んでいない悪を行うものです。その深い罪責は、キリストの犠牲の死、神の贖いの死によってしか救われないものです。

 キリストは罪の贖いだけにとどまらない、命を生かす、救いと喜びの内に私たちを導く、恵みの大祭司なのです。その中身は憐れみ深い、平和の真理、愛の深きに現れています。この憐れみといつくしみのこころが私どもひとりひとりの信仰に宿るよう、主は十字架の贖いによる救いを与えてくださるのです。

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