2011年3月20日 の説教



 聖書

ローマの信徒への手紙 3章21~28節

説教要旨   贖宥状(免罪符)を売り出し広めようとしたローマカトリック教会に抗議して1517年10月31日、マルティン・ルターはヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の提題を打ちつけ批判しました。宗教改革は「聖書に帰れ」という運動ですが、その主要なモチーフとなった贖宥状批判は、本日のパウロのローマの信徒への手紙3章27-28節「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」に根拠を置いています。

 「人の誇りはどこにあるのか」これは厳しい言葉です。人間は自分の善行、良いことをした、ということを誇りたい気持ちがある。それは善行の積み重ねによる功徳が自分の救いや幸福に結びつくと考えたいからなのです。

 良いことをすることはいいのですが、それを誇ることからそこには傲慢の罪がいつのまにか乗っかってしまう。名誉欲、正しい人としての裁きの心、そうしたものがいつの間にか相乗りをしているわけです。

 行為義認とは、行いによって義と認められるということです。自分は良いことをしたから、正しい人間である、と思うことです。中世のカトリック教会は(教会の行う善き業の為の)資金さえ出せばそれ即ち一人一人の功徳となり救われるという方式で免罪符を販売しました。この根本にはこうした行為義認が結びついています。

 パウロはローマの信徒への手紙の中で21節からこう示しています。

 「…神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」キリストが贖いの業を成し遂げ一人一人を罪から救ってくださると信じる。信じることによってのみ義とされるのです(信仰義認)。信仰によって神の憐れみの指し示す良き行いに私どもは導かれ、その良き行いを導かれた方を信ずる信仰によってこそ救われる。こうした脈絡をパウロはここに示したわけです。

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