2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 11章2~19節

説教要旨   今日の聖書の中で、バプテスマのヨハネは、ヘロデ・アンティパス(王)によって牢に入れられておりましたが、主イエスについて次のようなことを問うためヨハネの弟子たちを送って、尋ねさせています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(11:2)。以前にもヨハネは弟子たちを送って、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねさせています(9:14)。このときに、主イエスはご自身の展開される新しい教えと、ヨハネやファリサイ派のそれとはもはや相容れないことを悟って、「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という言葉を語りました。

 今回、ヨハネが聞いたのは、直接的に、あなたが神の子なのか、救い主なのか、と問うことです。実際ヨハネは牢に捕らえられた段階で、自分はもう長くないことを覚悟したのかもしれない。そうすると主イエスは自分が救い主と見込んだ者には違いないが、主の前に道を備える自分としては、安心して彼に委ねてよいのかどうか、大いに悩んだのであります。それは「新しい葡萄酒は新しい革袋に」とある通り、逆にヨハネにとっても主イエスの働きが救い主として相応しいものなのかどうか理解に苦しんだ事でしょう。

 主イエスは自らの宣教を次のように示しました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである(11:4-6)」それは癒しを行い、福音を告げ知らせる姿です。しかしヨハネはまさにこうしたところでイエスにつまづいていたことを自身として改めて知ったことでしょう。ヨハネのように社会正義を貫き悔い改めを雄叫ぶ宣教とは違いましたが、それは癒しと慰めと恢復と喜びを本質とする、神の愛の現れでした。

 主イエスはご自身の先駆者として荒れ野で道を備える働きをしたヨハネを高く評価し慕っており、その働きは旧約聖書マラキ書(3章1、22節)に引照されるようにエリヤに比すものだと示しました。けれども続く11節に、「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と示したように、それは神の使いを凌ぐものではありませんでした。神の子イエスの手の業と福音の宣教を新約聖書の証から知らされるとき、私どもは、その働きを素直な心で受け取っていくことが大事なことであることを思います。

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