2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 4章18~25節

説教要旨   今日の聖書には、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロとアンデレを弟子として導いたという出来事が示されています。そのとき、主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう(4章19節)」と言われました。この言葉だけで、二人の弟子は貴重な投網を投げ捨ててまで、主イエスに即座に従ったとあります。その後ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをも導き、この四人の漁師がすぐに主イエスの弟子になった。投網や船をのこし、家族を離れて主イエスに従ったのです。この言葉のどこに、人々を導く力があったのか、そのことを考えたいと思うのであります。

 19節の主イエスの言葉は新約聖書の原典の言葉ギリシャ語の本文をみると、直訳的には「私の後についてこい、そうすればわたしはあなたがたを人間の漁師にしよう」となっています。原文上明らかなことは「とる(=漁る)」にあたる言葉はないのです。敢えて動詞を探すならば、人間の漁師にしようという、この「しよう」、つまり何々の存在にならせよう、というような言葉があるのみです。つまりこのイエスさまの言葉の力点は「イエスさまご自身が(あなたがたを人間の漁師に)しよう」というこの「しよう」にあるのです。

 ペトロたちには、自力で人間をとる漁師になる力はありません。もともと漁師のプロであるにもかかわらず、のちに嵐の船の中で(マタイ8章23節~)、その船さえも操ることはできなかった。そのとき船の艫の方で寝ておられた主イエスを揺すり起こして嵐を鎮めていただくより他方途がなかったような者なのです。他の弟子たちも同じでした。我々人間も人の世の荒波の中に翻弄されうろたえ騒ぐ様相でしかないことを思います。主イエスの力において「成らしていただく」、そのような存在に導いていただく、としか言いようがないのです。牧師も、信仰者も、信じる者にならしていただくものです。

 宗教改革者ルターは、信仰でさえ与えられると言いました。自分が信じる、自分が信じない。しかし、その自由意思を超えて、信仰もまた、信じるように導かれるという神の力によってなせる業なのだ、それに信頼しなさい、とルターは示すのです。私どもも主なる神の力を第一に据え、自分がなすところのあらゆる業において、神様の力によってさせていただくという、謙虚かつ主を重んじる尊い思いの中から歩ませていただきたいと願うのであります。

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