2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 13章10~17節

説教要旨   イエス様はイザヤの預言(イザヤ書6章9-10節の言葉)によって「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。…」との言葉を示しますが、実際のイザヤ書のこの部分には神様の次の言葉が示されます。「『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」これは預言者イザヤの召命の出来事において示された言葉でした。つまり神様が自分の言葉を民に伝えたい、誰がその任務を請け負うだろうかと問うているのです。そしてイザヤは自らを示しました。

 神から召命を受けた者の直面する厳しさが示される。イエスの言葉を聞いたであろう人たち。イエスの奇跡の癒しの業を見たであろう人たち。そして主イエスの言葉を心から理解しようとした人たち、そして弟子たち。

 キリストが十字架にかけられたとき、かつてイエスの言葉を聞いたであろう人たちもイエスの癒しの業を見た人たちも、このエルサレムでのゴルゴタの十字架を見捨て、主イエスが信頼を置いた弟子たちでさえ逃げ去り、主イエスは孤独の中に据え置かれました。預言者イザヤに語り掛けた神様の言葉は、逆説的に読まざるを得ない言葉です。何故あなたがたは、と。何故あなたがたは、「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解しなかったのか。心で理解せず、悔い改めないのか。」イザヤの実際の予言はすべてこの問いかけを含んだものとなりました。

 イザヤは神様の心を深く読み取ったのです。神様のこころを霊的に、つまり心の事柄として読み取っていく。神様の思いや悲しみ、苦悩していることを読み取っていかなければならない。それは世界が罪に満ちているからです。

 本日の最後の方で、主イエスの言葉は16節、しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。と示されました。

 私ども信仰者の道のりもここに幸いと示されるのです。何度主イエスの前から離れ去ったか分からない。イエスの言葉を聖書の中から聞き、その業を聖書の中に示されてきた。しかし主の前から逃げ去る。あの十字架の苦難から逃げ去るかのように私たちは真理から真実から遠ざかろうとする。辛い苦しみから逃れていこうとする。それが人間の弱さであり、だれもがそうした弱さの中にある。しかし主イエスは復活の光をあてられるのです。闇に遠ざかっていこうとする私どもを再びご自身の復活をもって私はここにいる、あなたがたのそばにいると示してくださる。それが復活の中にある真理であり、真実なのです。またそこにこそ、神様にのみ従っていこうとするキリスト者たちのありようの真実もある。そして神のみにあっていこうとするところに真の幸いの道筋があるのです。

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