2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 5章1~12節

説教要旨   今日の聖書に、「ひとびと」という言葉がたくさん出てきます。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」この人々は誰なのか。
 
 この5章1節の状況は「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とあります。群衆が間近にいた訳ですが、それはこの教え(山上の説教)が終わる8章1節で「大勢の群衆が従った」とあるので具体的に大勢の人々がずっと主イエスの教えを聞いていたのでありましょう。その中には(こころの)貧しい人も、悲しむ人もいたであろうと思います。「その人たちは慰められる」と主イエスは語りました。誰からどのように慰められるのか、という明らかな示しがないけれども、他ならぬ主イエスがこう言っているので、イエス様ご自身、あるいは神様から慰められるということが自ずと分かるところです。

 柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、と並んでいく言葉には、あなたがたはそういう人になりなさい、と語っているかのようです。そういう人として祝福され、幸いな人と呼ばれるようになりなさい。そういう思いでイエス様は呼びかけているのではないでしょうか。

 最後の一群である10-12節について「義のために迫害される人々は、幸いなのか」という、現代の我々の問いがあります。初代のキリスト者たちは数々の残酷な責め苦と迫害をユダヤ人やローマ帝国から受けました。マタイによる福音書がかかれたとされる紀元100年頃の教会の時代もまたそういう時代の渦中であったと言えるでしょう。マタイ教会ではイエス様の言葉にとても励ましを受けたのです。

 幸いとは何か。振り返ってみると、この山上の説教にはとても私たちのこの世の価値観と結びつかない「幸い」が多くある。物質的に潤ったり、お金があったり地位を得ていたり、人々を権力によって自在に動かせたり、そういうことと、「幸い」は結びつかない。主イエスの語る幸いの人々は誰から慰めの幸いを得るのか。神様からです。この人々が神様とつながっていることを幸いというのです。

 どうして自分にはこのような試練が続くことかと嘆きのうちにある人。けれども、神様がそういう人々にしっかりとつながっていてくださるのです。そして神様とともにあることが、ほんとうに幸いといえることなのです。

 主イエスは行く手に自らの十字架の苦難を知りつつも、主イエスと神様とのつながりを見据えながら幸いを語りました。それはその通りになった、しかし、ここに神の栄光があります。自らの苦難を語るその言葉で私たちも神の栄光を語ることが許されているのです。

 私どもは毎日、しっかりと自分が神様につながるように祈ってまいりましょう。そこにこそ、神様の仕方で私たちを愛されることが一人一人の心に満ち溢れ、深い慰めと励ましとともにいてくださると。

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