2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 15章21~31節

説教要旨   主イエスの一行が、ティルスとシドン (ティルスとシドンとは、ガリラヤの北、地中海に面したフェニキア) の地方に入られた時の話です。フェニキアはギリシア、ローマと競う地中海沿岸の交易商業都市として栄えフェニキア人は海の民と呼ばれていました。その昔カルタゴと呼ばれ、ギリシアとはサラミスの戦い、ローマとは、ポエニ戦争で知られています。航海術にも巧みで前7~6世紀ごろアイルランド、南はカメルーンあたりまで到達したといわれます。その頃の地中海からイギリスやアフリカにいたるまでの世界を知り尽くしていた、そういった知力の高い文明をもつ。ユダヤの人々がどのような宗教思想をもっていたかということもよく分かっており、カナンの女性の機敏な、知力にあふれた答えはそうした背景のもとにあることと理解されます。

 今日の出来事は二段階に分けて問答がなされています。その第一段階は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というレトリックで、ユダヤ人は異邦人と交際することを禁じているがそれをどう考えるか、という、これは弟子たちへの問いかけなのです。そもそも弟子たちは「この女を追い払え」と主に頼んでいたのです。彼らからすると何故主イエスはこんな(異邦人の地である) ティルスとシドンに来たのかという不満があり、彼らの排外主義、偏狭さは、そののち全世界に向けて異邦人伝道を志す者たちとしては、お話にならないものでした。主イエスのレトリックに反論する気概のない弟子の様子にイエスは落胆したことでしょう。

 第二段階は、「こどもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」というレトリックです。これは女性に対して問われ、さて彼女はどう答えるかと主は注目していました。パンとはユダヤ人にとって命の糧であるとともに、救いを意味し、犬は当時のユダヤ社会では汚れた動物として異邦人を指すものです。これはそもそもユダヤ人を知り尽くしている女性にもすぐに分かりました。主は異邦人を嫌われたのではなく(直接的な物言いでは議論が平行線を辿るので)、ユダヤ主義者には理解できないレトリックで女性のこどもを救う手立てを示したのです。女性は見事にこの難解な問いに答えることができました。女性にはかわいいわが子を救うために神様に頼るより他ありませんでした。そのための知力を総動員させて、彼女は実に素敵な答えを導きました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」救いはユダヤ人にしか与えられないという従来のエゴイスティックなユダヤ教の解釈を否定しないながらも、従属的な立場に身を置かれても救いを得ようとしたこの女性の神様への信頼と謙虚さには我々全てが頭下る思いのするものです。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。(「大きい」(直訳)で弟子たちの信仰の「小さい」(例8:26「薄い」となっているが直訳では「小さい」)と対比)あなたの願いどおりになるように」との主の喜びに満ちた応答を引き出したのです。

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