2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 14章22~36節

説教要旨   五千人にパンを分かち合ったという主イエスの奇跡の業のあとにこの話が出てきます。22節からのところで「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、…その間に群衆を解散させられた」とあります。

 ヨハネによる福音書の同じ話(6章15節)では、パンの奇蹟を見た群衆はイエスを王に祭り上げようとしています。主イエスはもちろんそれを望んではおられませんでした。ピラトの尋問を受け「おまえはユダヤ人の王なのか」と問われた時も、主イエスはそれを否定なさいました。

 主イエスが荒れ野で断食し過ごされたとき、悪魔が現れて、高い山の上からすべての国々を見渡すという光景があります。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」との悪魔の誘惑は、あなたをすべての国の支配者、王にしようと言っていることと同じです。群衆から祭り上げられることは、主イエスからすれば悪魔の誘惑に近いものです。

 一方弟子たちの船は陸から何スタディオンか離れたところで逆風のために波に悩まされておりました(24節)。風と波と戦い、祈りもままならない状態で精根尽き果てた弟子たちは、何とか自力でこの場を乗り切ろうとしていた。自力で乗り切る。人間にはこの思いが強いのです。

 主イエスは群衆からの「王になれ」との声を振り切って自分ひとりきりになられ、祈りにおいて神様を求めた。荒れ野での悪魔の試みに遭われたときも、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」と示した主でした。まず第一に神様に仕える、自分が神様に仕えることを第一とするのです。自力で何とかしなければという人間の思いの一方、限界もある。その思いを神様に委ねつつ祈るのです。その祈りにおいて神様につながることこそが大事なのです。

 弟子たちが神様に頼ることを忘れ自力で波風と戦っていた時、近づく主イエスの姿が見えなかった。これは黙想すべきところです。そのような弟子たちに主イエスは「安心しなさい。わたしだ」と声かけられました。私だ、という神様の自己言明はミディアンの荒れ野でモーセに現れた神を想起させます。わたしはあなたのそばにある。主イエスの方に向かって水上を歩みだそうとしたペトロは一瞬波風を恐れ沈みそうになりました。その時主イエスを神を信頼することを忘れ、自分の足をふんばり自力で、と思ったのでしょう。「信仰の薄い(小さい)」と示された言葉は神様の前の非力な人間の状況を示しますが、そのように弱いからこそ神様が助けてくださるのです。自力で立ち続け、神様に頼ることの道筋を見失って倒れそうなすべての人間に、主イエスはやさしくいたわり、「安心しなさい」と声かけてくださっているのです。

礼拝の説教一覧へ戻る