2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 4章1~11節

説教要旨   今日の最初の1節では「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。「霊」とは基本的に見えないものであります。この見えない霊に導かれて荒れ野に行った理由は「悪魔から誘惑を受けるため」なのですが、2節を見ますと、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた、とあります。何故断食をしたのか。

 世界大百科事典やオックスフォード・キリスト教辞典には、断食とは、物質的なものと霊的なものとを際立たせ、感覚的な快楽の誘惑を弱めることにより、霊的な生活を強めることを意味している、と示しています。(見えない部分の) 霊的な生活の強化をもって、主は見える形の誘惑を迫る悪魔に備えたのでしょう。

 悪魔の3つの問いは一つ一つが「見えるもの」として示されていく誘惑です。しかし「石がパンになるように」との問いにはイエスは申命記8章3節の引用で「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」を示しました。見えるパンではなく、見えない主の言葉によって生きるという示しです。

 悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて、5節で「神の子なら、飛び降りたらどうだ…」と神を試みようとしますが、これには、申命記6章16節「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」を示しました。マサとは出エジプト記でモーセがエジプトの奴隷であったイスラエルの民を解放し荒れ野を彷徨っていた時(出エジプト記16-17章)、民は空腹や渇水の不満をモーセにぶちまけていたのですが、モーセはその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けました。人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したから(17:7)とあります。ここにも「見えるもの」を巡っての要求がありました。

 この二つの問いの中で悪魔は「神の子ならば」という問いかけをいたしました。「神の子ならば」という問いは見えるものとしての事績を求める迫りであります。マタイ福音書27章40節の「…、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」との声は見える形で示せ、との神への試みです。主イエスは決してその声に従いませんでした。10節でイエスがサタンを退けられ、言われたように『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と、主イエスは見えない神に祈り仕えたのです。見えないものへ見えない祈りをする。これは悪魔にはどうにもできないことであった。祈りとは、悪魔が軽んじているものなのです。11節では悪魔は離れ去ると(見えない)天使たちが来て主イエスに仕えるというコントラストがはっきりと表れています。それは多くの罪深さを救う十字架の祈りであります。神の子はそうして私たち一人一人の救いのために祈り働きゆかれたのです。

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