2011年3月20日 の説教



 聖書

ヨハネによる福音書 14章1~11節

説教要旨   主イエスが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている(ヨハネ福音書14章4節)」と問いかけたのに対し、弟子の一人トマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。(5節)」と言いました。他の弟子たちも同様だったと思います。ちなみに「主よ、どこへ行かれるのか…」は13章36節で、シモン・ペトロがイエスに「主よ、どこへ行かれるのですか」と言った言葉でもあり、この言葉はラテン神学で「クオ・ヴァディス」と訳され、ノーベル文学賞を受賞したヘンリク・シェンキェヴィチによる同名小説では、迫害の激しさの中でローマ伝道を諦めローマを去りかけたペトロに対して現れた主イエスが、すれ違いざまに「主よ、どこへ行かれるのですか」と呼びかけたペトロに対して、もう一度十字架にかかりにローマにいくと答えるシーンがあります。

 主イエスの進む道はどこなのか。

 今日のヨハネによる福音書では、主イエスが何のために道を進むのかということはハッキリとしており、1-3節で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。…あなたがたのために場所を用意しに行く…場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と示しています。この「(父の家の)住む所」はもともとギリシア語の動詞メノーに由来し、それはしばしば「神のうちにとどまる」と使われ、神と共なる場所を意味します。

 さらに弟子のひとりフィリポは、「主イエスよどうか神をお示しください、そうすれば満足できます」と要求します。見えない神を見せてくださいという、問いそのものが不条理なのですが、私どももまた不条理な現実の中でそう問う存在なのではないかと思います。苦しい時悲しみの時に、神様ならばこの現実をどうしてこのように導いたのかと問うような。弟子たちは既に主イエスを見、またその業を知っているのに満足できない。私どももまた、イエスご自身が「道である」と示しているのに、その他の道を行こうとするのではないか。そのようなときに、もう一度、父なる神のみこころと、主イエスの道を考えさせられたいと思うのです。それは神の愛に貫かれた道であり、この愛を知らずしては、辿りゆけない道を主は導いてくださるのです。

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