2011年3月20日 の説教



 聖書

ルカによる福音書 24章44~53節

説教要旨   本日の聖書の言葉の前の段落で突如弟子たちの真ん中に復活の主イエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは恐れ慄き、亡霊を見ているのだと思った、とあります。彼らにイエスは「…わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。…」と言って、手と足をお見せになったとあります(36‐40節)。

 主イエスの差し出された、手と足とは、当然のことながら、十字架に打ち付けられた、つまり釘痕がしっかりと残された手と足のあとです。それは釘が貫通した、痛々しい傷跡であり、見るたびにその苦痛さえ思い出されるような、生々しい痕に違いありません。そのような釘痕を見て弟子たちは喜んだのです。この喜びは何なのか。

 弟子たちは主イエスを見捨てたのです。十字架に付けられ苦しまれる主イエスを見捨てて逃げた。それはその代わり弟子たち自身の命こそ助かったかもしれないが、彼らはその代わりに深い心の傷を負ったのです。主イエスを見捨てて逃げ自己保身に走った薄情者。そういう罵詈雑言を浴びせられても仕方のない苦しい辛い思いが弟子たちの意識を取り込んでいただろうと思われます。ですからそれは痛々しい傷痕ではあるものの、主イエスが今ここに生きているという喜びに彼らは震えたのです。見捨てて逃げたひとりひとりが自分を恥じ悔いつつも、今まで責め苛まされていた罪の意識が、主イエスの復活によって緩やかに癒されていくのを感じたのです。自分たちの弱さや欠け、そういった人間的なものが、神の力の復活のしるしによって十分に包み込まれ癒されていく。この復活の光の中で、一人一人の罪の闇が明らかに照らされ癒されていくのです。

 45節で、主イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。…あなたがたはこれらのことの証人となる。」

 よく初代教会は魚をシンボルにしていたといわれますが、それが十字架に変わっていく中で、メシアの苦しみを覚え、それが罪の赦しを得させる悔い改めを導くものであることを思います。こうして十字架による宣教が弟子たちの手に託されていったのです。

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