2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 7章7~14節

説教要旨   主イエスの「求めなさい。そうすれば、与えられる」との言葉を考える時に、逆に「求めなさい」、でも、与えられなかったとなる方が多い世の中の現実の状況の中で、この言葉は神にあって求めることの大切さを示しています。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」主イエスご自身が、「門をたたきなさい」、しかし、開かれなかったという経験の中で生まれられた方です。主イエスが誕生するということが記されているルカによる福音書2章には、ベツレヘムまで旅をしてきたヨセフとマリアの夫婦が宿を探し求めたが、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。ほぼ野宿に近い形で生まれられたのが主イエスであった。そうした世間の冷たさの中に生きざるを得ない中で、主イエスは自分自身がその中で生まれたにもかかわらず、「求める」ことを勧める。

 続く言葉では「パンを欲しがる自分のこどもに、石を与えるだろうか」と示します。たとえ、あなたがたが悪い者であったとしても、自分のこどもには良い物を与えることを知っているという意味をそのあとに示しています。列王記上3章16節以下の「ソロモンの名裁き」では、互いに一人のこどもを取り合う母親に真の愛情を試す話があります。こどもを愛している真の母親ならば、たとえ手離してでもこどもが生きることを願うものです。

 人間存在は罪深い存在であるにもかかわらず自分のこどもには良い物を与えることを知っている。11節の後半は、まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる、と。神様は求める者に良い物をくださる方だと示します。かつて、イスラエルの人たちがエジプトの奴隷を脱出し、カナンの地を求めて荒れ野を彷徨ったときにモーセに文句を言いました。パンがない、肉がない、飲み水がない云々、と。このときに神様は人々の願いに応えられました。天からマナやうずらを降らせて食欲を満たし、岩から水を出させてその渇きを潤された。こうして人々の求めに癒しを与えられたのです。

 12節には「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とある。「求める者には与える」神様の愛の姿に倣うのです。自分に置き換えて考えてみる、と私どもはよく言う。その人の立場に立って考えるというように。そうするれば他人の苦しみや悲しみ、喜びやうれしさのことも分かるというのです。けれども、「人にしてもらいたいと思うことは何でも」というところに悩みをもつのではないか。自分はどこまで、人の求めに応じることができるか。あるいは人の求めに応じようとしている自分の行いは行き過ぎているのではないか、と。

 しかし、主イエスの言われた言葉には「あなたがたも」と言っています。その前の文には、神様が「求める者に良い物をくださる」という、神様の心があるのです。私ども人間は、神様のように求める者に与えることはできませんけれども、神様に続く者としてこうしなさい、と主イエスは言われているのです。たとえ不十分であってもそこに神様に続く心があればそれこそが大事なのです。

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